松本ピアノの歴史

松本ピアノの歴史

 「松本ピアノ」は、君津市出身の松本新吉が創業し、国産ピアノ製造の黎明期に山葉(現ヤマハ)・西川と共に三大ピアノブランドとして活躍したピアノメーカーです。

 ピアノは東京の築地や月島、君津の八重原やえはらで製造され、君津の工場では2007年(平成19年)までピアノ製造が行われていました。ピアノの響きを決める「響板」には国産のエゾマツを使用するなど音色にこだわり、その柔らかく優しい音色は「スウヰ(イ)ート・トーン」(Sweet Tone)と呼ばれました。

 現在、君津市民文化ホールには12台の修復された松本ピアノが保存され、明治から昭和にかけて製造された歴史あるピアノが今でもコンサートなどで演奏されています。

創業者 松本新吉

新吉 生家
 松本新吉は1865年(慶応元年)上総国周淮郡常代かずさこくすえぐんとこしろ村(現在の千葉県君津市常代)で生まれました。隣家は後に国産オルガン製造の先駆者となる西川寅吉の生家でもありました。君津からは国産楽器製造のかいとなる人物が2名も輩出されています。
 新吉は横浜の西川風琴ふうきん(オルガン)製造所で働いていましたが、1893年(明治26年)28歳の時に調律師として独立。同時に紙巧琴しこうきん・オルガン製造にも着手し、ピアノの試作も行いましたが満足せず、1900年(明治33年)35歳の時に渡米を決意しました。

ニューヨークでのピアノ製造修行


 半年ほどのアメリカ滞在の中で、数多くのピアノ工場を訪問し、ニューヨークのブラドベリーピアノ社では身を持ってピアノ製造を学びました。これまで訪米した日本人が誰も現場を見せてもらえなかったサウンドボード(響板)の製作方法など、本場のピアノ製造技術を習得しました。
 新吉は多くの工程を熱心に学び、研修終了の際、同社のスミス社長は「忠実に我が社の規律を守り、熱心にそして辛抱強く訓練を終えた。」と褒め称えています。

帰国後の松本楽器合資会社と月島工場


 1903年(明治36年)には第5回内国勧業博覧会でベビーピアノが最高位を受賞しました。この後、販売店や工場の整備を経ていよいよ「松本ピアノ」が広く世に出ることになります。
 1904年(明治37年)松本楽器合資会社設立、同年銀座4丁目に「松本楽器販売店」設立を果たしました。しかしピアノ製造の拠点となるはずだった築地工場が1906年に火災で焼失したため、同年月島に工場を移設します。ピアノやオルガンの売れ行きは好調で、明治40年代(1907年~)には1か月にオルガンが80台、ピアノが6台売れたと新吉は語っており、前田侯爵家や原敬首相など、多くの著名人にも購入されたと記録されています。

故郷八重原工場での製造


 1923年(大正12年)関東大震災で被災し、再建された月島工場を長男広に譲りました。新吉は「H.MATSUMOTO」(エチ・マツモト)というブランドで大量生産を始めた広とは袂を分かち、六男新治とともに故郷の八重原で「松本ピアノ八重原工場」(君津郡八重原村外箕輪)を設立、ピアノ作りの技術と完成された楽器から出る音にこだわった「S.MATSUMOTO」(エス・マツモト)というブランドでの再出発をしました。
 頭文字の「S」は新吉と新治、また、新吉が松本ピアノの第一の特徴として掲げ、常にこだわりつづけた「スウヰ(イ)ート・トーン」を表していました。新吉の技術は新治と地元の青年らに継承され、職人の手作業によるピアノ製造が行われました。

工場の閉鎖と奏で続けられる修復ピアノ

松本 新一氏
 新吉は1941年(昭和16年)に77歳で没し、相次いで新治は1945年(昭和20年)に急逝しました。その後新治の妻である和子と戦前からの従業員、新治の息子である新一により「MATSUMOTO&SONS」(マツモト&サンズ)というブランドでピアノ製造が続けられました。
 しかし「手作業によるピアノ生産」は他社の「機械による大量生産」の時代の中で経営を圧迫され、2007年(平成19年)工場は閉鎖・解体、83年の歴史に幕を下ろしました。
 工場内にあったピアノは君津市に寄贈され、新一氏と工場閉鎖後に立ち上がった松本ピアノ・オルガン保存会のメンバーによって2008年(平成20年)から修復を施され、三代続いた「スウィート・トーン」は今も奏で続けられています。
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